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臘八粥

お客様の声|西安金橋国際旅行会社(中国金橋国際旅行社西安支社)

  八宝粥とは、米、アワ、もち米、アズキ、ナツメ、ピーナッツ、クルミ、栗などを甘く煮たおかゆだ。缶詰にして1個3~4元(約58~77円)で売られており、物価上昇が激しい中国にあって貴重なお値打ち保存食になっている。
 臘八粥は、五穀豊穣を祝って、来たる春節を準備するために旧暦12月8日に食べる中国伝統のお粥だ。仏教が中国に伝わった際、お釈迦(しゃか)様が苦行で倒れ、羊飼いの娘が差し出した「羊乳の粥」を食べて回復し、悟りを開いた話が広く伝わったことから、この日にお粥を作り、仏に供える習慣が生まれたという。
 八宝粥は臘八粥と呼ばれることもある。材料は地域によって異なるが、基本的には何種類もの穀物やナッツ類を甘く煮たおかゆである。

 

かわいいが6倍!秦嶺パンダ研究センターが赤ちゃんパンダ6頭の写真を公開―中国

秦嶺ジャイアントパンダ研究センター(陝西省希少野生動物救護基地)では今年、パンダの赤ちゃんが6頭誕生した。そしてジャイアントパンダの「秦秦(チンチン)」が生んだ双子の赤ちゃんパンダが最近、生後100日を迎えたのを記念して撮影された今年生まれた赤ちゃん6頭が一緒に写る写真が「かわいすぎる」と話題になっている。西安新聞網が伝えた。

 

「秦秦」が生んだのはオスとメスの双子。現在、兄の体重は4.9キロ、妹の体重は5.0キロとなっている。「秦秦」が双子を出産するのは今回が2回目で、すでに育児経験豊かな母親となっている。

 

「秦秦」の双子の赤ちゃんのほか、同センターでは8月11日にオスの双子の赤ちゃんが生まれた。体重は現在、兄が6.9キロ、弟が6.5キロだ。

 

パンダの「安安(アンアン)」は9月19日に赤ちゃんを産んだ。初めての出産だったが、今では上手に赤ちゃんに母乳をあげたり、排便の世話をしたりすることができるようになった。「安安」の赤ちゃんはとてもやんちゃでかわいく、体重は現在3.2キロだ。

 

国慶節(建国記念日)の10月1日には、「愛浜(アイヒン)」が体重200グラムの赤ちゃんを産んだ。すくすく成長し、体重は4.3キロまで増えた。

 

秦嶺ジャイアントパンダ研究センターの科学研究者は近年、ジャイアントパンダの飼育・繁殖の技術体系を確立し、人工繁殖したパンダの急増を実現させている。2003年以降、パンダの出産32回を導き、生まれた赤ちゃんの数は38頭に達し、人工繁殖による個体数は42頭となっている。(提供/人民網日本語版・編集/KN)

沙河古橋遺跡で秦漢時代の橋脚と護岸遺構を発見 陝西省咸陽市

お客様の声|西安金橋国際旅行会社(中国金橋国際旅行社西安支社)

新華社西安11月18日】中国陝西省考古研究院はこのほど、同省咸陽市の沙河古橋遺跡で2020年から実施している発掘調査で、秦漢時代の橋脚17本と川の護岸に使われた「埽岸(そうがん)」の遺構を発見したと発表した。
 遺跡は咸陽市秦都区の沙河古河道にあり、1980年代に発見された。過去の発掘調査では秦漢時代の1号橋と隋唐時代の2号橋の遺構が見つかっており、20年から新たな調査を実施されていた。

 発掘調査の現場責任者を務めた同研究院の陳愛東(ちん・あいとう)氏によると、1号橋遺構の保護施設(覆屋)の南北両端から3列の木製橋脚17本を新たに発見した。橋脚の方向は保護施設内の橋脚とほぼ同じだった。同時に見つかった埽岸遺構により、1号橋の長さと範囲がさらに特定された。

 「埽」は古代の水利工事で用いられた建築部材で蛇籠(じゃかご)に当たる。竹などの柔らかい材料で土と石で挟んで作られた。複数の「埽」を縄と木の杭で結んだ護岸部分を「埽岸」と呼んだ。今回の発掘調査では、竹籠で包まれた塊状の沖積土砂が分布しているのが見つかり、護岸のための「埽体」と判断された。埽岸の平面は積み重なった塊状の沖積土砂で、底部に竹ひごで編まれた跡がはっきり見られることから、当時は処理した土砂を竹籠に入れ、それを積み重ねて「埽岸」を形成したとみられる。今回の発掘調査では、鉄器3点とシカの角2点も発見された。
 陳氏は、土砂を包んでいた資材など今回の調査で採取したサンプル6点の年代測定により、1号橋の建築年代が秦漢時代と判明したと説明。橋は前漢時代の灃水橋(ほうすいきょう)とみられ、皇帝が狩猟や行幸するために建設された可能性があるとの見方を示した。(記者/楊一苗)

広勝寺の明代彩色塑像 山西省臨汾市

お客様の声|西安金橋国際旅行会社(中国金橋国際旅行社西安支社)

広勝寺の明代彩色塑像 山西省臨汾市
 【新華社太原10月7日】中国山西省洪洞県の中心市街地から北東に17キロ離れた霍山(かくざん)の南麓に、全国重点文物保護単位(国宝・重要文化財に相当)に指定される広勝寺がある。上寺と下寺に分かれる境内の上寺にある毘盧(びる)殿には彩色塑像が安置されており、制作技術の高さで知られる。

 

主像の盧舎那(るしゃな)仏、阿弥陀仏、阿閦(あしゅく)仏の巨大な火炎光背は見る者に一種の浮遊感をもたらし、火炎の上を自由に飛び回る飛天(天人・天女)や金翅鳥(きんじちょう、仏教の霊鳥)は極楽世界を彷彿(ほうふつ)させる。そばに立つ侍者像の容姿や服装は写実性に富んでおり、明代の彩色塑像の華麗さが際立っている。

陝西省銅川で「陶磁の道」に思いを馳せる 耀州窯遺址博物館を訪ねて

お客様の声|西安金橋国際旅行会社(中国金橋国際旅行社西安支社)

耀州窯は現在の陝西省銅川市に位置する青磁窯で、宋代「六大窯系」の一つ。宋代に最盛期を迎え、その製品は海外でも好評を博したという。中国の陶磁器はアジア諸国や東アフリカにまで輸出され、その貿易流通ルートは「陶磁の道」と呼ばれる。この道は日本へも続いていた。
■唐・宋代に栄えた耀州窯
8月初旬、「一帯一路」メディア協力フォーラムメディア取材・視察の一環で、陝西省銅川市にある耀州窯遺址博物館を訪ねた。

耀州窯遺址博物館(撮影・勝又あや子)
耀州窯は宋代「六大窯系」の一つとされる青磁窯。現在の陝西省銅川市に位置している。銅川は宋代には耀州に属しており、そのため耀州窯と呼ばれた。黄堡鎮を中心として、漆水の両岸に南北約5キロ、東西約2キロにわたって分布していた。唐代に始まり、五代に発展、北宋の時代に全盛期を迎えた。金代にも引き続き磁器を作り続け、元代まで続いたとされている。

耀州窯遺址博物館に展示されている窯場跡(撮影・勝又あや子)
今回訪れた耀州窯遺址博物館は、耀州窯の中心だった黄堡鎮の窯場跡だ。1930年代、鉄道建設工事に伴って黄堡鎮で大量の青磁が発見され、1950年代に入って陜西省文物管理委員会による本格的な調査がスタート。さらに、1984年から1994年にかけて、陜西省考古研究所が大規模な発掘調査を行った。その跡地は1988年に第三陣の全国重点文化財保護施設に指定され、2006年には耀州窯磁器製造技術が第一陣の国家級無形文化遺産に登録されている。
黄堡鎮の窯場跡からは唐三彩や青磁など多くの遺物が見つかっており、そのスタイルも多岐に及ぶ。唐代から元代にかけて長期にわたり磁器の生産が行われていたと考えられている。

耀州窯遺址博物館に展示されている各時代の地層(撮影・勝又あや子)
耀州窯の磁器は時代によってさまざまな特徴があるが、最もよく知られているのは宋代のオリーブグリーンの青磁だ。文様の輪郭を斜めに幅広く削る「刻花」技法と、細くひっかく「劃花」技法を使い、立体感あふれる優雅な線を表現した。また、宋代中期には模様のある型を押し付ける「印花」の技法が確立され、さらに多彩な題材を表現することが可能となった。そして宮廷で用いられるようになり、中国全土に向けても販売され、さらには海外でも人気を博すようになったという。

耀州窯遺址博物館に展示されているオリーブグリーンの耀州窯青磁(撮影・勝又あや子)
■日本まで続いていた「陶磁の道」
中国で作られた陶磁器は、「陶磁の道」によって域外へにも運ばれた。「山川世界史小辞典(改訂新版)」の「陶磁の道」に関する説明によると、「陶磁器はシルクロードにおける絹とともに古くから交易の対象として世界に伝播され、その貿易ルートは『陶磁の道』と呼ばれた。9世紀以降、周辺のアジア諸国や東アフリカに輸出されて貿易流通ルートとしての『道』をつくった。現在、東南アジアやインド、ペルシア湾北岸からエジプトに及ぶまで中国陶磁器の破片が多く出土しており、その道が多岐にわたっていたことが知られる」。
この「陶磁の道」は実は日本へもつながっていた。そのことを示す一例が、福岡県博多市の博多遺跡群だ。博多遺跡群は、JR博多駅の北側に南北1.6キロメートル、東西0.8キロメートルにわたって広がる遺跡群で、ここから中国産をはじめとする輸入陶磁器が多数出土している。

博多駅地下祇園方面連絡口の「博多区まちかど文化広場」に展示されている博多遺跡群の出土品(撮影・大和由美子)
博多は古代から中世にかけて日本の国際貿易の拠点だった。特に盛んだったのが10世紀後半から13世紀にかけての日宋貿易だ。主に金や刀剣、漆器、扇などが輸出され、織物や陶磁器、典籍、銅銭 (宋銭) などが輸入された。
博多遺跡群の出土品には耀州窯を思わせるオリーブグリーンの皿などが見られるが、龍泉窯系のもので、耀州窯ではない。ただ、宋代に海外でも評判を呼んだという耀州窯の製品が、当時盛んだった日宋貿易で日本にも輸出されていた可能性はあるのではないか。陝西省の山間にある耀州窯遺址博物館に展示されている出土品を見ながら、ここで焼かれた磁器が海を越えて日本の博多へと運ばれていく様子を想像するのは実に楽しい体験だった。
■現代に生きる耀州窯
元代に入ると耀州窯の中心は陳炉鎮に移り、耀州窯遺址博物館がある黄堡鎮の窯場は廃れてしまう。一方、陳炉鎮のほうは1400年にわたって窯の火が絶えず、現在に至っている。
陳炉鎮では、装飾品やどんぶりなどを焼成する窯が今も稼働を続けている。陶芸体験のできる施設や宿泊施設などもあって、「陶芸村」のような存在として知られており、多くの観光客が訪れている。

陳炉鎮の一角(撮影・勝又あや子)
また、最近では、現代の陶芸家によって、耀州窯の特徴を生かした作品創作が行われている。中には、耀州窯のシンボル的な存在である「青釉刻花倒灌壺」をアレンジした作品もあった。

現代作家が「青釉刻花倒灌壺」をアレンジして創作した作品(撮影・勝又あや子)
「青釉刻花倒灌壺」は北宋の時代に耀州窯で作られた逸品。1968年に、陝西省彬県城関鎮で、ある農民が城壁を修理していた際に発見したものだ。西北大学哲学学科の資料管理員をしていた親戚が帰省した際、この農民のテーブルの上にあったこの壺を見つけ、非常に精巧な作りなのできっと由来のあるものだろうと考え、陝西歴史博物館に持ち込んだという。

陝西歴史博物館に収蔵されている「青釉刻花倒灌壺」(撮影・勝又あや子)
この壺には、獅子の形をした口はあるが、上部に蓋も開口部もない。壺をひっくり返し、底の部分にある梅の花の形をした穴から水を注入すると、中にある管を通って壺の中に水がたまっていく仕組みになっている。「それでは口から水がこぼれてしまうではないか」と心配になるかもしれないが、実は獅子の口の内部にもう一つ管が下向きに付けられており、壺を逆さまにして注いだ水がこの管の高さを超えない限りは、水がこぼれてしまうことはない。また、水がたまってから壺をひっくり返しても、壺の内部の水の高さよりも高いところに注水管の先が位置していれば、底から水が流れ出てこない。この仕組みは、当時の人々の科学的な知識と技術の高さを示すものとして高く評価されている。
ところで、前出の現代作家が「青釉刻花倒灌壺」をモチーフにして作った作品には、ある機能が付加されている。この作品は、なんと加湿器。しかも、耀州窯遺址博物館関係者によると、なかなかの売れ行きなのだという。
長く歴史から消えていた耀州窯は、1930年代以降の発掘調査によって現代にその姿を蘇らせた。そして今、現代の陶芸家たちによっても新たな命が吹き込まれつつあるようだ。(文/勝又あや子)
人民網日本語版」2022年9月23日

 

 

実りの棚田に観光客も注目 陝西省嵐皋県

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 【新華社安康9月9日】中国陝西省安康市嵐皋(らんこう)県南宮山鎮の桂花村では千ムー(約67ヘクタール)にわたる棚田が収穫シーズンを迎え、村民らが稲の刈り取りにいそしんでいる。黄金色の田園風景を目当てに訪れる観光客や写真愛好家も少なくない。

 

 同村はここ数年、水田造成プロジェクトや合作社(協同組合)と農家による統一栽培・統一販売の強化、地元ブランドの構築などの措置を通して農業の質の高い発展を促進してきた。観光インフラの整備に力を入れることで農業と観光を融合させ、農家の収入増を後押ししている。

 

 

陝西省洛南県 無形文化遺産の乾麺の伝承人

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陝西省商洛市洛南県保安鎮眉底村在住の66歳の李長満さんは10代の頃から先祖の独特な空洞乾麺作りを学び、洛南手作り乾麺の省級無形文化遺産伝承人である。彼は地元の上質な石臼挽き小麦粉、秦嶺野山水、食塩を使用し、こねる、伸ばす、揉む、寝かせる、吊るすなど28の手順を行い、36時間かけて麺を作る。